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第一章 ビル・ゲイツ豹変す
ブラウザー戦争勃発せり

 ブラウザー戦争の勃発は、ネットスケープナビケーターのリリースから始まった。ネットスケープナビケーターのリリースは1994年10月で、これを期にマイクロソフト社は、自前のブラウザーを開発する必要に迫られた。ネットスケープの台頭を許すと、間違いなくOSの独占体制が薄れ、マイクロソフト社の未来の利益がそがれることは明かだった。
 とはいうものの、爆発的に普及していくネットスケープ・ナビケーダーを追撃するのは、容易なことではなかった。たとえ天下の秀才や天才を集めまくったマイクロソフトであっても、一から開発するとなると、最低でもリリースまでに1年はかかるであろうことは、容易に予想された。
 そうなると既存のプラウザーからライセンスされたものを使うしかない。このとき、ナビゲーター以外のブラウザは、NCSAのモザイクしかなかった。

 モザイクのライセンスは最初はNCSAが行なっていたが、問い合わせが多くなり煩雑になるにつれ、NCSA側は、スパイグラス社にマスターライセンスを供与し、全てのライセンス契約を委ねた。
 スパイグラス社は最初から大口のクライアントとして、マイクロソフト社をターゲットに考えていたが、相手にされなかった。しかしナビケーターのリリースから数日のうちに、マイクロソフト社はスパイグラス社に問い合わせてきたのだ。
 交渉は難航した。ライセンスを供与するは好きだが、供与されるのは嫌いなマイクロソフトは、スパイグラス社の求める1本につき1ドルのライセンスフィーに首を縦に振らなかった。交渉は12月まで続き、ロイヤリティは支払うが、その代わりに二百万ドルを上限とする、という契約で決着がついた。いわば、マイクロソフトのタフな交渉で、スパイグラスが根負けしたということだろう。つまりこの契約では、スパイグラス社は、マイクロソフトのブラウザーが二百万本以上売れても、二百万ドル以上は受け取ることができないのであった。
 しかしこのときのライセンスはWindows 95のみで、それ以外のプラットフォームでのブラウザーは契約外であった。

 ビル・ゲイツが急いだのは、当然翌年リリースされるWindows 95に自前のブラウザーをパンドルする必要があったためであり、Windows 95にマイクロソフトの全てを賭けていたビル・ゲイツに取っては、ブラウザーは是が非でも必要であった。
 しかし、インターネットブラウザーはプラットフォームを超えるものであることが誰の目にも明かになってきた。しかも1995年にJavaが発表されると、ブラウザーがOSというプラットフォームを超越した新しいプラットフォームであるという可能性が、疑うことのできない現実のものとなってきた。となると、マイクロソフト社のエクスプローラーもクロスラットフォームで動作する必要が起きてきた。Windows 95だけでなく、それ以外のマイクロソフト社以外のプラットフォームでのエクスプローラーを開発しなければ、ナビケーターを追撃するどころか、到底勝てそうもなかった。

 マイクロソフト社は、今一度クロスプラットフォームでのライセンス契約のために、スパイグラス社と交渉の席につかねばならなかった。このときの交渉の内容は明かでないが、スパイグラス社は、Windows 95版と同じように、他のプラットフォーム版の開発でもロイヤリティの上限設定に同意したようである。
 Webブラウザーでスタンダードになったナビケーターが、数百万本どころか数千万本、いや億を超える本数が出荷されることは間違いないことであったにも関わらず、スパイグラス社は、モザイクのライセンスを安売りしたのであった。マイクロソフトがナビゲーターに対抗してブラウザーを開発する以上、同じように出荷される可能性があったにもかかわらず、である。
 ライセンスの上限設定を手に入れたビル・ゲイツは、すかさず、ネットスケープ社に戦線布告を行なった。つまりエススプローラーもただにするという発表を行なったのだ。

 ここに新興のネットスケープ社と、巨人マイクロソフトとの仁義なきブラウザー戦争が幕を期って落とされた。そのときにはシェアを十分確保していたネットスケープ社であったが、マイクロソフト社の追撃は脅威であったはずである。
 もしスパイグラス社が、マイクロソフトと対等にタフに交渉し、たとえ何十セントであっても、本数に応じてライセンスフィーを貰うようにしていれば、おそらくマイクロソフトはエクスプローラーの無料配付はできなかったに違いない。もし上限設定がなければ、たとえマイクロソフトであっても、そこまでは踏み切れないだろう。しかしだからといって、自前で開発していたとすれば、やはりナビゲーターの追撃は間に合わなかったかもしれない。

 いずれにせよ、このブラウザー戦争は、インターネットをさらに熱くし、Webをアトラクティブになものにするうえで、ユーザーにとってはありがたいものだった。ブラウザーはみるみる進化し、HTML言語はより複雑になったが、Webの浸透は加速されたのである。
 しかしブラウザー戦争のもっとも大きな落とし子は、ソフトウェアはただでもよいと言うことを、多くの人に知らしめたことではないだろうか。今まで、ソフトウェアは全て買うべきものか、ハードウェアに抱き合わされるものという認識であったものが、そうではなく、ただで配付するということがあっても、おかしくないと言うことをソフトウェアに携わる多くの人が知ったということである。
(1999/07/22up)
「DTP-Sウィークリーマガジン 第16号(1999/02/17)」掲載



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