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第一章 ビル・ゲイツ豹変す
ソフトウェアは簡単にコピーされるもの?

 エド・ロバーツは、BASICインタープリタを買い取って、アルテアの完全な専属ソフトウェアにしたかったが、ビル・ゲイツとポール・アレンが断わったので、使用権契約に甘んじるしかなかった。エド・ロバーツにしても、ソフトウェアの重要性は理解してただろうが、ハードウェアよりもソフトウェアの方が重要になるとは思わなかったのかもしれない。いずれにしてもビル・ゲインのねばり勝ちだった。
 しかし、使用権契約といっても、契約上他社のパソコンには提供できなかった。MITS社との契約とともにマイクロソフト社が設立されたが、これにはエド・ロバーツも出資していた。マイクロソフト社は、いわばMITS社のソフトウェア子会社であった。また、ポール・アレンは、MITS社の社員でもあった。

 アルテアは関係者の予想を遥かに超えて、売れまくった。もちろんヒット商品が現れると、柳の下を狙うものが現れた。アルテアの成功を見て、多くのパソコンメーカーが現れた。アップル社の創設もこの少し後である。競合であるべき他社のパソコンメーカーの大半はインテルの8080チップを採用しており、そうなると新たにBASICを開発するより、マイクロソフト社から使用権の許諾を得ようと考えた。しかし当然、このライセンスには、エド・ロバーツの許可が必要だった。
 当たり前だが、エド・ロバーツは他社へのライセンスに首を縦に振らなかった。しかしふたりは、エド.ロバーツを上手く口説いて、他社へのライセンスを実行していった。結果論でいえば、エド・ロバーツは事業家としての執念が希薄だったため、BASICの普及について寝ても覚めても考えているビル・ゲイツが押し切ったというところだろうか。
 結局マイクロソフト社とMITS社の関係は約2年でおわり、エド・ロバーツはMITS社を売り払い、かねてからの念願だった医者への道を志すことになった。これではれてビル・ゲイツは自由の身になった。BASICインタープリタを誰に気がねすることなく売りまくることができたのだった。BASICは自由に販売され、マイクロソフト社はみるみる大きくなっていった。

 と同時に、そのBASICをコピーし無断で使用する人たちが現れた。つまりいわゆる違法コピーである。このときの記憶装置は紙テープであったが、当然プロテクトなどというプログラムは搭載されていなかったから、テープからテープへと簡単にコピーできた。
 当時シリコンバレーには、いくつものコンピュータを趣味とするサークルがあって、かれらは至極当たり前のように、誰かが調達してきたソフトウェアをコピーして使用していた。
 ある日ビル・ゲイツはこの無断使用に我慢できなくなって、彼らに対して公開状を送り、「法外」な使用料を請求した。BASICのライセンス料を収入源とするマイクロソフトにとっては、無断使用は即、利益の減少を意味するものだったので、断固とした姿勢をとったのだった。
 ホビイストにとっては、寝耳に水とはこのことだった。誰も使用料を払わないだけでなく、ビル・ゲイツのあまりの「不見識」に驚いた。かれらはそのときから、スタンダードになることがどれほど価値のあることかを知っていた。たとえ無断使用のコピーであっても、普及すれば新たなビジネスが派生することを知っていたのである。
 いまとなれば、当たり前のことかも知れないが、そのときのビル・ゲイツにとっては、ライセンス料だけが全てだった。しかし実際にはホビイスト達のいうとおり、無断使用のBASICが市場に満ち溢れていたので、IBMがパソコン市場に目を向けざるを得なくなったとき、BASICを採用することになり、そのとき選ばれたのは、やっぱり無断使用で普及していたマイクロソフトBASICだったのだ。

 正しくいうと、マイクロソフトが飛躍して発展したのは、BASICをIBM-PCに積んだことではなく、買い取ったDOSをうまくIBMにライセンスしたことにある。この話は、ここでは割愛するが、幸運はゲイリー・キルドールの脇をすりぬけ、ビル・ゲイツに微笑んだのである。ビル・ゲイツの運の強さを感じざるを得ない。
 しかしもしBASICが普及していなければ、IBMのジャック・サムズはマイクロソフト社には訪れなかったに違いない。だから、無断使用によってBASICインタープリタのスタンダートが確立されたのは間違いなく、その点では、ビル・ゲイツの考え方は正しくなかった。あるいは、視野が狭かったというとこだろうか。
 そのことは決して非難すべきことではなく、もしアルバカーキ時代のビル・ゲイツが、そこまで理解している人物であったら、マイクロソフト帝国はもっと早く築かれていたかもしれない。

 いずれにしても、ソフトウェアはライセンスが全てという当時のビル・ゲイツの考え方は、インターネットの時代になって完全に覆された。それがウェブブラウザーの登場だった。あれだけライセンスフィーに神経質だったビル・ゲイツは、エクスプローラーをただで配るようになったのだ。ネットスケープナビケーターが「ただ同然」である以上、あとから追いかけるエスクプローラーは、それを超えるためには「ただ」である必要があった。
 エクスプローラーをただで配る、いまのビル・ゲイツは、アルバカーキでライセンスビジネスに血道を上げていた彼と同じだろうか。いや、そうではなく、彼の考えたかは変わったのである。彼はソウトウェアという商品から使用権を取るという考え方を脱ぎ捨て、デファクト・スタンダートになるという戦略に転換していったのである。
 さてそれでは、かれはどのようにして豹変していったのだろうか。
(1999/07/06up)
「DTP-Sウィークリーマガジン 第13号(1999/01/21)」掲載



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